高島の畑漬け文化を未来へ
—澤井さんが守り続ける、地域に根づく味
琵琶湖と山に囲まれた高島市は、豊かな自然が育む独自の食文化が脈々と受け継がれる土地です。そのひとつが、標高約365mに位置する畑(はた)地区で作られている伝統漬物「畑漬け(はたづけ)」。唐辛子の辛味と野菜の旨味が調和した鮮やかな漬物で、肉料理にもよく合い、日々の食卓に彩りを添えてきました。
この畑漬けを半世紀以上作り続けている澤井キミ子さんのご自宅を訪ね、歴史と味をつないできた知恵と工夫について取材しました。
“見よう見まね”から始まった、長い畑漬けづくりの道
澤井さんが畑漬けを作り始めたのは30代の頃。きっかけは、ご近所に住んでいたおばあさんの存在でした。「隣のおばあさんが作ってはって、それを見ながら覚えていったんです。」
こうして受け継がれた家庭の味は、今も毎年大切に作り続けられています。
澤井さんの暮らす畑地区は、琵琶湖周辺よりも約3℃気温が低く、昼夜の寒暖差も大きく、発酵がゆっくり進むため、畑漬けづくりに適した環境が整っています。同じレシピでも、土地や気候、そして作り手によって味が変わるのが発酵食品の面白さで、畑漬けの味には、この地の環境が欠かせない条件なのだそうです。

継承の難しさと、それでも続ける理由
毎日の手入れが欠かせないため、継承は決して容易ではありません。「昔はこの辺だけでも40軒くらいが作ってはったんですよ。でも今は6軒ほどになりました。」
担い手が減っている中で、澤井さんは地域の味を未来へと残すために、次の世代に製法を受け継いでもらえるよう、地域の人へ少しずつ作り方を伝えているといいます。

澤井さんが守り続ける、三つのこだわり
澤井さんには、畑漬けづくりで「これだけは変えたくない」と大切にしている三つのこだわりがあります。
①塩分はできるだけ控えめに
素材本来の味がしっかり感じられ、毎日食べても飽きない味わいに。
「漬物は体に優しくてこそ」という思いが、このやさしい味を支えています。
長年の経験から「この野菜にはこの塩加減」と調整していくため、“目分量”でも迷いがありません。娘さんが「お母さんの味は真似できない」と話すのも納得の職人技です。
②昔ながらのやり方をそのままに
万木(ゆるぎ)かぶの香りと色を活かし、ビーツでさらにやさしいピンク色を添える——。
高島に受け継がれてきた手法を忠実に守り、道具や環境が変わっても“味の記憶”は守り続けています。
③毎日1~3回、自分の手で世話をする
樽の温度や匂い、色のわずかな変化…。
どれも本には書かれていない、長年の経験で積み重ねてきた感覚が頼りです。
一日でも手を抜けば味わいが変わるため、「毎日の世話」が欠かせません。

塩分への気遣い、伝統への敬意、そして丁寧な手仕事。
この三つのこだわりが重なって、澤井さんの畑漬けは唯一無二の味を生み出しているのです。
畑漬けが美しい“薄紅色”になる理由
畑漬けの魅力のひとつが、その愛らしい淡いピンク色。
「色をつけても、味が変わったらあかんのです。そこが難しいところ。」
人工的に調整するのではなく、自然が生み出す色と香りで仕上げる昔ながらの知恵が光ります。

唐辛子の辛み × 野菜の旨味。発酵が育てる奥深い味
畑漬けは、辛い唐辛子と甘い唐辛子とシソを組み合わせ、そこに、夏の野菜である、きゅうり・なす、冬の野菜である白菜・大根・かぶなど旬の野菜を加えて漬け込むのが基本です。なすは入れたままにして、冬野菜とともに漬け込むのがポイントです。
・1カ月ほどで鮮やかな薄紅色に
・漬けすぎると辛味が強くなる
・漬け具合が浅いと香りが薄くなる
漬ける期間は季節によって違い、料理に合わせて調整するのも澤井さんならではの工夫。
特に野菜ごとの扱いには細やかな判断が必要です。たとえば、なすは色と香りづけと“発酵を進める役として漬けますが、食べません。
きゅうりは味が変化しやすいため、役割を終えたら取り除きます。
にんじんは味が変わってしまうため、入れません。
こうした繊細な工程が、独特のおいしさを生み出しています。

畑漬けは“樽とともに生きる”発酵食
畑漬けの樽は、6月から翌年3月頃まで同じ樽で漬け続けるのが基本。
4月になると発酵が進み過ぎて酸味が強くなるため、この時期に入れ替えを行います。
発酵具合は一日ごとに変化するため、樽の状態を確認するのは欠かせない日課。
「漬物は生き物みたいなもの。毎日違うんよ。」澤井さんの言葉からは、長年向き合ってきた人だけが知る発酵への深い理解が感じられました。
今回の訪問では、毎日欠かさず畑漬けの世話を続けておられる澤井さんの姿が、何より心に残りました。実際にいただいた畑漬けは、やさしいピンク色に染まり、唐辛子の香りと野菜の旨味がふわりと広がる、初めての味わいでした。それなのに、どこか懐かしさを感じさせる——そんな、高島ならではの深い魅力に満ちていました。
季節ごとに採れる野菜を順に漬けていくという営みに、とても惹かれました。年中野菜が手に入る現代では忘れがちな旬の移ろいを、畑漬けはしっかりと映し出しています。寒暖差の大きい土地、水の美しさ、そして毎日の手仕事——そのどれが欠けても生まれない味。畑漬けが「幻の漬物」と呼ばれる理由がよくわかりました。樽の色、香り、野菜の状態に一つひとつ向き合いながら、丁寧に受け継がれてきた「地域の味」。澤井さんのお話を伺う中で、発酵食は単なる保存技術ではなく、自然と暮らしに寄り添いながら育まれてきた文化そのものであることを強く実感しました。この文化がこれからも地域で、大切に受け継がれていくことを願っています。